第249球「準備」(2006.7.31)

 つくづく野球というスポーツは予想がしやすいスポーツだな、と思うことがある。それは「この場面は何だか嫌な予感がするな」と思えば、大概それを上回る悲劇に見舞われ、「この場面、何となくヤツは打ちそうな気がする」と思えば、快打を飛ばすこともある(もっともこちらは思い通りに行かないことの方が多いのだが)。予想がしやすい、というのは語弊があるな。予想、というよりむしろ「予感」だ。感覚的ではあるが、意外とこの「予感」というものを俺は大事にしている。さらに言うなれば、その予感に対していかに「準備」するか、が肝なのだ、と俺は思っている。

 試合前、試合後の反省会で口すっぱく言っているのだが、野球は「準備」のスポーツだ。この状況で次に自分のところに打球が来たら、こう処理する。自分のところに打球が来なくても、こうカバーリングをする。それを投球と投球の間のわずかな「間」の間に整理し、お互いに確認する。攻撃もまた然り。このカウントであればサインが出るならエンドランしかない、とか、ランナーがここにいるから最悪ここにゴロを打とうとか、そういう準備をいかに明確に単純に整理できるか、そしてそれをチーム全体の総意として統一できるか。チームプレイの根源はまさにここにある。

 だから、「ここでこう打ってほしいな」「ここでこう守ってほしいな」と意思統一が出来ていると、単純な一つのプレーやたとえ凡打でさえも、「ナイスプレー!!」と賞賛の声をもってベンチで迎え入れられることになる。そういう声を聞くと、ああ、意思統一できているなぁ、と感じる。

 極端なことを言えば、準備していないプレーはできない。準備のないプレーは打線を線にしない。守備を網にしない。痺れる試合であればあるほど、その準備が劣勢から挽回する鍵となり、相手をジリジリ追い詰める武器になるのだ。だからこそ、ピンチであればあるほど、チャンスであればあるほど一声かけよう。グラウンドレベルでベンチレベルで意思統一してプレーしよう。

 ということを「なぜ野球評論家はいて、サッカーはコメンテーターなのか」と考えているうちに思いついたのである。野球は評論できるくらいある程度準備が利くスポーツなのだ。