第210球「采配が全てではないけれど」(2005.5.13)

 実のところ、采配で勝てる試合というのは非常に数少ない。それが主将を二年間務め、采配を振るってきた俺の正直な感想だ。結局やるのは選手一人ひとり。その絶対的な「仕事」の積み重ねが、じりじりと相手から点を奪いとる源泉になっていることは間違いない。采配はあくまでそれを補完する立場のものだ。

 だが、各選手が自由気ままなプレーのみを追求してしまったら、やはり試合には勝てない。チームプレーはできない。とはいえ、徹頭徹尾采配まみれにしてしまったら、それこそ自分のベストプレーもままならないし、そもそもそういう野球面白いか?という疑問にぶつかる。その辺の微妙なさじ加減が「采配」というものをより難しくしているのだろう。

 その微妙なさじ加減の中、TWINSは積極的にサインを出していく。なぜ?と聞かれると、一言「勝つため」。だが、采配のおかげで勝った試合ってありますか?と聞かれるとう〜ん、と唸ってしまう。あんまり記憶にないなぁ、というのが正直な感想だ。しかし、それでもTWINSはサインを出し続ける。それは「勝つため」の『意思』を明確に出したいからだ。どんな勝負でも「勝とう」と思って取り組まなければ、勝てない。その取り組みの最たる例が、「サイン」なのだ、と俺は思っている。

 失敗しても、逆に流れが相手チームに行ってしまう危険性があっても、動くべき時にはやはり動かねばいい結果は出ない。背負うリスクも大きいことも百も承知だけど、それでも俺はTWINSではサインを出し続けたい。それはTWINSの勝利への執着であり、チームの存在意義でもあるからだ。

 采配がすべてではない。しかし、チームの意思は采配にこそ如実に現れるのだ。