第168球「土俵入り?」(2004.5.17)

 大リーグ中継を見ていると、シアトルマリナーズのイチロー選手は、打席に立つ前のネクストバッターボックスで、いつも同じストレッチをしている。そしておもむろに打席に入り、またあの独特の構え(バットをすっと立てて、自分の右の袖をぴっと摘む動き)をしてからアットバットの大勢に入る。好調な時も不調な時も、チャンスでも、チャンスでも無くてもいつも同じ。こういう型を持っている。

 俺も打席に入る前には、そんな「型」を持っていることに気付いた。まずは、バットの両端を持ち、それを肩の後ろに回し、さらにプロペラをのようにぐるぐる回す。そうすることで肩のストレッチをしてから打席に入る。そうすることでなんとなく安心して打席に入れる。落ち着くというか、精神が集中する、というか・・・。そのストレッチがスポーツ医学的に正しいかどうかは別にして、だ。

 多分これは俺にとっての、一種のクセのようなもので、決まりきった型を淡々とこなし、そこから打つことに対するモードに自分自身を切り替えていく、という営みを無意識のうちにしているのだろう。もちろんゲン担ぎのようなある種おまじないのような要素もあるのだろうけど。イチロー選手も似たようなイメージであの動きをしているのではないだろうか。そういやぁ、似たようなものがあったなぁ・・・そうだ!。「土俵入り」に似たようなものだな、と思う。

 「土俵入り」の動きは、実は色々な意味がこめられていて、「攻め」と「守り」の型というものをそれぞれ表現しているもので構成されているものらしい。だが俺にはその一つ一つの動き云々はよくわからない。そういうことを論じるよりも、「さぁ、これからいよいよ相撲観戦だ。」というモード切替の合図のようなものとしてのイメージが大きい。

 崇高な「土俵入り」に比べるのは、非常におこがましいのかもしれないが、程度の違いこそあれ、根底に流れる発想は同じなのかなぁ、と思う。後はどういうシチュエーションでもその一連の動きを淡々とこなせるか、そういう精神論をいかに突き詰めていくか、なのだろう。まさに「心技体」の世界だ。俺がイチローに惹かれる一番の理由は、卓越した打撃への技術ではなく、そういう精神的な面なのだ。彼の一連の動きは「土俵入り」のように崇高に見える。俺の動きは・・・まだまだ。