第66球「理論と実践」(2002.3.13)

 俺の学生時代の恩師の座右の銘は、「最も理論的なものは、最も実践的なものから成り立っている」というものだ。机上論にとらわれる事無く、フィールドワークや市場調査などを重視する、というそのスタンスは、俺のスタンスに大きな影響を与えている。もちろん野球人としてのスタンスも同じだ。

 とかく野球人は経験を積んでくると、野球というものを「理論」だけの側面から語ろうとしがちだ。それは、自分自身の「実践」が肉体的・精神的に自分の理想とするものから遠ざかってしまい、ひいては自分の「理論」だけが一人歩きをしてしまうことに他ならない。具体的にいうなれば、ジャイアンツの拙い試合運びにいちいち口を挟む新橋の酔っ払い親父みたいなものだ。

 新橋の親父が悪い、と言っているのではない。アレはある意味俺の憧れの姿(?)でもある・・・。あくまで、「ある意味」ですけど。プロ野球は見ていて面白いが、我々にとって所詮「理論」でしかない。「実践」する場がないから、当然のことだ。しかし、草野球は違う。「理論」もあれば「実践」もある。どちらがより大切か、と言われれば、当然「実践」になる。新橋の親父と違うのはまさにこの点だ。

 俺がこうして野球(だけじゃないけど)に関わる様々なことについて、コラムを書いていられる理由は、グラウンドで野球に取り組んでいるからだ。グラウンドに向かわなくなったら、多分このコラムは、無味乾燥なつまらないものになってしまうだろう。「理論」だけ語り始めたら、草野球人はおしまいだ。そこに「実践」が伴わないと、書いている意味がない。だとすると、草野球人として書くことが無くなってしまって、実に面白くない。

 俺だけでなく、草野球HPでコラムを書いている方や、自分で同報メールを送っている方や、掲示板に書き込んだりしている方には、野球人として「書くこと」がある。「書くことがある」、というのは実は素晴らしいことなのだ。それは、媒介を通しているものの、グラウンドからの視線であればあるほど、面白いものなのかもしれない。なぜなら、そこに「理論」と「実践」が複雑に入り混じっているからだ。

 さらに言うなれば、野球に全然興味もない、という方にとっても「なんとなく面白いなぁ」と思えるものであるなら、それは野球人としてだけでなく、一人の人間として「書くこと」があることに他ならない。そこには「人」が滲み出る。最終的にはそういうところまで表現できればいいなぁ、と思っている。